稲作のルーツを求めた大ロマン探検
梅原 猛/安田喜憲 著『長江文明の探究』

新思索社刊 本体3500円+税

 田んぼには、四季折々の顔がある。田植え時の水面光る清々しさ、真夏の強い日差しのエネルギーを蓄えようとする稲の青さ、秋風に波打つ稲穂、寒さに耐え翌年の地力を蓄えようとする冬の田んぼの凛とした佇まい。いかに工業化されたとはいえ、このような田んぼの移ろいは日本人の生活リズムに深く入り込んで、日本文化を支えている原風景にちがいない。
 あるきっかけで、今年、自ら米作りをすることになった。毎日の食膳に上るご飯を通して見える田んぼの風景は、イメージとしてはいつも頭の中にあった。それが、田に入り稲に触れることで、たちまちその風景の中に取り込まれて、一体化した自分がいることを発見した。いままでに、一度たりとも米作りをした経験がないにもかかわらず。
 しかも、私だけの感覚ではないのだろう。いっしょに米作りを始めた仲間も、初めて田んぼに入ったその瞬間から、まったく顔の面が変わり、心底からのやすらぎを覚えていることが伝わってきた。現代人が置き忘れてしまった自然とのつながりを、一瞬にして想い出させる、田んぼの不思議な力なのだろうか。

 さて、本書『長江文明の探究』は梅原猛・安田喜憲という両泰斗が、長江流域に「稲作漁撈文明」を追い求めて実施した、10年近くにわたる、湖南省・城頭山遺跡を中心とする発掘調査の一部がまとめられたものである。地道な中国側の研究者らとの共同発掘調査に基づいて「稲作起源」、そこから発生する都市文明(長江文明)の発展から崩壊に至るまでの過程を追いながら、大胆な推理も加え、ロマンあふれる内容となっている。同時に、竹田武史氏による遺跡の現状や発掘現場の写真が、両泰斗の対談で展開されている発掘調査の分析内容をリアルに伝えており、長江文明発展の写真集としても楽しめる。
 この本で、まず、わくわくさせられるのは、長江流域の「稲作起源」が、それまでの定説のはるかに以前まで遡れる可能性が出てきたことである。これまでの歴史で習う「稲作起源」はせいぜい5000年前で、しかも長江上流・雲南省とするのが定説であった。それに対して、長江中流域・湖南省にある彭頭山遺跡から発見された炭化米は、AMS(加速器質量分析法)による年代測定の結果、8650〜7900年前のものであることが明らかとなった。同じ湖南省の玉蟾岩遺跡からは、最古の土器と共に4粒の種籾が発見されており、土器は1万8500〜1万4100年前のものと断定でき、種籾については、その周辺土壌に含まれる炭片が1万5300〜1万4800年前頃のものと年代測定された。このような発掘調査から、「稲作起源」は長江の上流域ではなく中流域であること、そして従来説の5000年前ではなく8600年前であることがわかり、さらには推測の範囲では1万4000年前頃まで遡れる可能性があるという。
 稲作が確実視されている長江下流域の河姆渡遺跡から発見された、洪水で埋められたままになった農家を目の前にして、梅原氏は子供の頃に見た農村風景と同じものが、7600年前に出現していたことに大きな感慨を覚える。


長江中流域の玉蟾岩遺跡から出土した1万7000年前の土器に見入る著者
(右:梅原、左:安田)。

 梅原氏―7600年前の洪水で埋められたままの農家が出てきた。ちゃんと納屋みたいなところ、土間みたいなところがあって、そこに稲束が蓄えられていたのがそのまま出てきたのです。それを見て、僕はびっくりしました。 
 どうしてかというと、僕は愛知県の片田舎の内海町というところで育った。子供のときに農村で見る風景というのは、やっぱり稲作でした。一面の黄色い稲穂をつけた田んぼと、もう一つはお蚕さん。稲作のいそがしい季節がすむと、みんな農家は蚕を飼うのです。人間の住む部屋もないくらい飼っていた。僕の家も僕が育つ50年ぐらい前まではやっていたということでした。
 ともかく、7600年前の河姆渡遺跡の稲作では、稲の束がそのまま出土して、驚いたことには、お蚕さんを飼っていたのです。そしてお蚕さんの絵を彫刻した象牙製品まで出土していました。しかも機織り機械がたくさん出てきた。これはお蚕さんを飼って、絹をとったに違いない。僕の子供のときの農村の思い出が一気によみがえってきました。50年前の僕の田舎の農村と同じことがここで行われていました。7600年前に。(本書p.24から)
 このような「稲作起源」の見直しは、その周辺にひろがる後年代の遺跡が物語るシナリオへとつながっていく。洞庭湖西岸にひろがる陽平原に位置する城頭山遺跡から、6400〜6200年前に構築された直径360メートルにおよぶ円形の城壁が発掘されている。この遺跡には、「最古の城壁」「最古の水田」「最古の祭壇」「最古の祭場殿」「最古の祭政殿」という「最古」の5点セットの発見があり、安田氏はこれらが「稲作漁撈文明」の重要な特徴であるとの仮説を提示する。
 そして、これまで四大文明として認知されてきた文明は畑作(麦作)牧畜型都市文明であるが、これとは全く異なる稲作漁撈型都市文明の発展系譜の存在を提起することになる。前者が「交易・消費センター」機能をもち「力と闘争の文明」を構築したのに対し、後者は「祭祀・生産センター」として機能し、「美と慈悲の文明」を発達させたとの推論が展開される。 


河姆渡遺跡にて、当時の生活風景を想像した復元

 安田氏―万人が万人を疑う社会では契約は必要不可欠であり、他者を威圧する金属器の武器が必要だった。しかし、人々がともに信頼しあい、大地の豊かな恵みに確信をいだき、人と自然を信頼する社会においては、人殺しの金属器の武器も、契約のための文字もさして必要ではなかったのである。
 私たちは力と闘争で物事を解決する畑作牧畜型の都市文明に、ほとほと疲れはてた。アメリカとイラクの戦争でいったい何が生まれたのか。そしてこの畑作牧畜型の都市文明は「力と闘争の文明」を生みだし、地球環境の保全、自然と人間の共存、民族と民族の共存、文明と文明の共存の点においても行き詰まった。力で地球を支配し、人間を支配する文明はもういらないのである。自然と人間が共存し、すべての民族が心豊かにおだやかに暮らし、異なる文明が共存できる新たな文明世界は、この畑作牧畜型の都市文明からはもはや創造できないことがはっきりした。
 これに対し、城頭山遺跡の誕生から明らかになったように、稲作漁撈型の都市文明は大地の豊かさを確保し、その大地の豊饒性を維持するために、人々の力を結集させるために誕生していた。それは大地の豊かさの確保のために全エネルギーを結集し、美しい水の循環系を守り、利他の心、慈悲の心に裏打ちされた都市文明だった。
 この稲作漁撈民が生み出した「美と慈悲の文明」こそが、21世紀の未来を切り開くことができる可能性を秘めた文明なのである。その文明の代表が「長江文明」なのである。(同p.99から)

 長江文明における巨大都市の発展経緯やその文化、その後の急速な衰亡については興味深い推理の域を出ない状況であるが、時代の環境変化を科学的に調査する環境考古学の成果や民族学的な研究成果からの解明を期待したい。
 自然からの莫大な搾取で成り立つ近代の社会経済システムが、今、環境問題の観点から、あるいは人類社会自体の持続可能性を維持する観点から、変革を余儀なくされている。このような状況のなかで、稲作を基盤としてきた日本社会の本質は、持続可能性への変革に大きな示唆を与えてくれるものと密かな期待を抱いている。

(NEC CSR推進本部 環境推進部  統括マネージャー 工学博士 宇郷良介)